東京地方裁判所 昭和36年(刑わ)5947号 判決 1965年10月05日
主文
被告人青木晟および同山屋八万雄を各懲役二年六月に、被告人松浦政雄を懲役一〇月に、被告人飯島徳太郎を懲役八月に、各処する。
但し、それぞれ、この裁判の確定の日から、被告人青木および同山屋に対しては各三年間、被告人松浦および同飯島に対しては各二年間、右刑の執行を猶予する。
訴訟費用中、昭和三八年六月一九日出頭の証人藤村博明および同田中和夫に各支給した分ならびに証人中間義美に支給した分は、被告人青木、同山屋、同松浦および同飯島の連帯負担、証人筒井六已、同今野陽夫、同大塚恵一、同竹森愷男、同市川弥二郎、同塩島住由、同井沢昇二、同平野鎮および同矢作福次に各支給した分ならびに昭和三九年二月一一日出頭の証人渡辺秀および同月二五日出頭の証人田中正治に各支給した分は、被告人青木および同山屋の連帯負担、証人大谷栄に支給した分は、被告人青木の負担、昭和三九年九月八日出頭の証人田中正治および同藤村博明に各支給した分ならびに同年一二月八日出頭の証人田中正治に支給した分は、被告人山屋の負担、証人野沢孝三、同福島光および同内山文一ならびに昭和三九年一二月一日出頭の証人渡辺秀に各支給した分は、被告人青木、同松浦および同飯島の連帯負担、昭和三九年一〇月二〇日出頭の証人藤村博明および同田中和夫に各支給した分は、被告人松浦および同飯島の連帯負担とする。
理由
(被告人らの経歴等)
被告人青木晟は、埼玉県北葛飾郡幸手町で出生し、日本大学商業学校夜間部を卒業し、昭和一五年から肩書地で鉄工場を経営し、昭和一六年これを会社組織として株式会社青木工業製作所と称し、今日まで同会社の代表取締役をしており、また昭和二七年青和信用組合の成立当初からその組合長をつとめ、後記興国農機株式会社では、昭和三三年七月から昭和三四年二月まで監査役、ついで昭和三六年八月まで取締役、その間昭和三五年二月から同年六月まで代表取締役社長をしていたもの、被告人山屋八万雄は、群馬県邑楽郡千代田村で出生し、同地の村立実業補習学校を卒業し、一六歳の時上京して材木商の店員となり、二五歳頃独立して材木商を営み、昭和六年ラジオ部品の製造、ラジオの組立、販売等を業する山屋工業所を設立し、昭和一四年これを会社組織として山屋工業株式会社と称し、その代表取締役となり、昭和一五年から海軍軍需工場の指定を受けて通信機部品を製造し、また、その頃別に山屋重工業株式会社を設立して、その代表取締役となり、飛行機用懸吊機の製造をし、他方、昭和一七年頃有限責任深川区商工信用組合の理事待遇、ついで昭和二一年その理事、昭和二三年その専務理事の各地位に順次就任し、昭和二六年その後身たる永代信用組合の組合長となり、じらい引き続き同組合の組合長の地位にあり、また全国信用協同組合連合会の設立に協力して、昭和二九年三月これが設立されてからその理事長となり、後記興国農機株式会社では、昭和三三年七月から取締役となり、その間昭和三五年二月から同年六月まで代表取締役、会長の地位にあり、また別に、昭和三三年頃から食肉加工品等の製造、販売等を営む鎌倉ハム食品工業株式会社の代表取締役となり、なお、多年江東区議会議員、ついで東京都議会議員を勤めていたもの、被告人松浦政雄は、北海道函館市で出生し、幼少のおり父を亡くし、秋田県南秋田郡琴浜村の母方の実家で育ち、同地の小学校高等科を卒業し、北樺太石油株式会社に勤めたこともあつたが、昭和一二年頃上京し、昭和一四年から常盤鋼管製造所の名称で鋼管の引抜製造業を始め、やがてこれを会社組織として常盤鋼管株式会社と称し、その代表取締役となつたが、終戦後農業機械の改良に志して畜力カルチベーターおよびプラオの製造、ついで動力耕耘機の研究、製造に努力を重ね、右常盤鋼管株式会社を株式会社興国農機製作所と改称し、昭和三一年八月同会社の資産を引き継いで興国農機株式会社を設立登記し、その代表取締役となつていたが、昭和三五年二月これを辞任したもの、被告人飯島徳太郎は、長野県埴科郡五加村で出生し、長野中学校を卒業するや直ちに上京し、苦学の末日本大学商経学部経済学科を卒業し、昭和一二年計理士、昭和二六年税理士となり、昭和二八年公認会計士を登録し、後記興国農機株式会社では、昭和三一年八月から監査役、昭和三三年七月から取締役、昭和三四年二月から再び監査役、昭和三五年八月から取締役を順次勤めていたものである。
(関係会社および関係金融機関)
(1) 興国農機株式会社
興国農機株式会社(以下興農と略称する。)は、前記のように被告人松浦が創立したもので、農耕機械器具の製作、修理および販売等を営業目的とし、本店を東京都板橋区上板橋町六丁目四、八一八番地に、支店を大阪市西区京町堀上通り三丁目三三番地に置き、資本金は、昭和三一年八月二、〇〇〇万円であつたが、昭和三二年五月五、〇〇〇万円、同年一二月一億二、五〇〇万円、昭和三六年八月三億五、〇〇〇万円に順次増資され、その株式は、昭和三二年一月四日から名古屋証券業協会から店頭売買株式として承認され、第二市場の開設に伴ない昭和三六年八月名古屋証券取引所において上場株として取引されるようになつた。
(2) 青和信用組合
青和信用組合(以下青和と略称する。)は、昭和二七年一一月中小企業等協同組合法に基づいて設立され、中小商工業者、勤労者等の組合員に対する資金の貸付、組合員のためにする手形の割引、組合員の預金または定期積金の受入等を目的とし、その営業地区は、東京都葛飾区、墨田区、足立区および江戸川区の四区とされ、主たる事務所は、同都葛飾区高砂町九三六番地に置かれ、出資の総額は、昭和三四年三月末一、三九二万五、五〇〇円、昭和三五年三月末一、六二九万九、五〇〇円、昭和三六年三月末二、一二九万五、〇〇〇円であり預金積金の受入総額は、昭和三四年三月末三億三、二五七万〇、七六二円、昭和三五年三月末四億八、二四二万〇、八五三円、昭和三六年三月末七億五、一六七万〇、七七九円であり、同一組合員に対して行なう貸付額の最高限度は、出資金および準備金(法定準備金、特別積立金その他組合勘定に属する準備金をいう。)の合計額の一〇〇分の一〇に相当する金額とされていた。被告人青木は、組合長として同組合の業務全般を統轄し、専務理事早川明石、常務理事市川弥二郎らの補佐を受けていた。
(3) 永代信用組合
永代信用組合(以下永代と略称する。)の前身は、前記有限責任深川区商工信用組合で、有限責任永代信用組合と改称後、中小企業等協同組合法に基づき信用協同組合に組織変更され、青和と同様の事業目的を有し、その営業地区は、東京都全域とし、主たる事務所は、同都江東区深川永代二丁目七番地の一に置かれ、同一組合員に対する貸付額の最高限度等については、業務方法書等によつて青和と同様に規定されている。その出資の総額は、昭和三三年三月末一億二、八〇三万〇、四〇〇円、昭和三四年三月末一億三、七三三万四、六〇〇円、昭和三五年三月末一億四、九一三万六、六〇〇円、昭和三六年三月末二億〇、一九二万三、六〇〇円で、預金積金の受入総額は、昭和三三年三月末二三億〇、五七六万五、〇〇〇円、昭和三四年三月末二八億〇、八一四万九、〇〇〇円、昭和三五年三月末三六億二、六四二万二、〇〇〇円、昭和三六年三月末五一億九、〇二七万八、〇〇〇円であつた。被告人山屋は、組合長として業務全般を統轄し、専務理事山屋保元の補佐を受けていた。
(4) 全国信用協同組合連合会
全国信用協同組合連合会(以下全信連と略称する。)は、昭和二九年三月中小企業等協同組合法に基づき設立された信用協同組合の連合会で、営業地区は、全国とし、全国の信用協同組合の大半を会員とし、会員に対する資金の貸付、会員のためにする手形の割引、会員からの預金の受入、これらの事業に付帯する事業等を目的とし、主たる事務所は、東京都中央区日本橋村松町二〇番地に所在する。その出資の総額は、昭和三三年三月末二億二、九八〇万円、昭和三四年三月末二億六、六七〇万円、昭和三五年三月末二億七、九四〇万円、昭和三六年三月末三億〇、九〇〇万円で、預金の受入総額は、昭和三三年三月末三〇億二、六三三万三、七八四円、昭和三四年三月末四六億一、八一二万〇、二四二円、昭和三五年三月末七六億二、三五六万〇、五二八円、昭和三六年三月末一三五億〇、三〇〇万円であつた。同一会員に対して行なう貸付額の最高限度は自己資本(出資金、法定準備金および特別積立金の合計額をいう。)の一〇〇分の二五に相当する金額とする。但し、やむを得ないときは大蔵省銀行局長の承認をえてこの限度を超える取扱いをすることができる旨定められているが、事実上の一般貸付規準は、当該会員の出資金と定期性預金の合計額の三倍とされ、例外として毎年資金需要の多い盆、暮に右基準額の二分の一を追加貸付すること、また特別の場合は同じく右基準額の二分の一を追加貸付することを認め、前者を<臨>貸付、後者を<特>貸付と称していた。被告人山屋は、理事長として常務理事瀬戸介爾らの補佐をうけて事業を統轄していた。
(罪となるべき事実)
第一 被告人青木および同山屋の背任の事実
(一) 関連事情
興農は、昭和三三年三月上旬日本勧業銀行池袋支店で手形の決済資金の補充が遅れ、これを買い戻したことがあつたことから、従来から資金の融通を仰いでいた日本相互銀行池袋支店および三井銀行常盤台支店からの借入の枠を失い、東海銀行池袋支店および右日本勧業銀行池袋支店からの借入も制限を受けるようになり、一層運転資金の不足をきたしていたので、同年五月中旬頃その代表取締役社長松浦政雄、監査役飯島徳太郎らは、その下請の大津精工株式会社の代表取締役米倉順道の紹介によつて被告人青木に対し青和からの融資を懇請したところ、青和の資金量が豊かでないとの理由から拒絶されたが、同被告人から資金量の豊かな永代の名を挙げてその組合長たる被告人山屋を紹介され、ここに、被告人山屋と交渉した末、ようやく同月二二日以降永代から融資を受けることができるようになつた。その後、同年七月一五日被告人山屋は、取締役、被告人青木は、監査役として、それぞれ興農の役員に就任し、同被告人らは、同年八月頃前記米倉を取締役待遇として入社させ、経理面を担当させて経営の充実をはかり、興農の事業の発展を期したけれども、手形決済資金の不足の状態が続き、やつぎばやの融資の結果、同年末には永代から興農への融資残高は、一億七、〇〇〇万円を超えるに至つた。この間、永代から興農への融資額の増大を仰える意味もあつて、同年八月九日頃永代の組合長室において、被告人山屋、同青木のほか、永代の組合長席箕島良輔、興農の監査役飯島徳太郎らが寄り合つて相談した結果、被告人青木の経営する株式会社青木工業製作所(以下青木工業と略称する。)の永代における借入金口座を利用して、同会社名義により五、〇〇〇万円の枠内で永代から興農へ融資することに決め、これに従い同年八月一一日から同年九月一〇日にかけて三回にわたり合計五、〇〇〇万円の融資がなされてきた。永代は、興農に対する融資に関し、興農から当初組合出資金一〇〇万円を徴し、昭和三三年五月二〇日その本社工場の土地(約一、五七八坪)、建物(約六七三坪)、機械設備等に極度額五、〇〇〇万円の根抵当権を設定するとともに、停止条件付代物弁済契約を締結して、同年八月一二日右設定登記および代物弁済予約の仮登記を了したのを始めとし、昭和三五年七月二九日興農の大阪支店の土地(約九二坪)、建物(約七四坪)を、昭和三六年八月一日四日市市所在の山林等をそれぞれ共同担保にとり、前記本社の土地建物と併せて極度額一億円の根抵当権を各設定するとともに、各代物弁済契約をも締結し、それぞれ昭和三五年八月五日および昭和三六年八月一五日右根抵当権設定登記および代物弁済予約による仮登記を了した。そのほか、永代は、興農をして相当額の定期性預金をさせるとともに、見返りとして興農が販売代理店などから受け取る商業手形を差し入れさせていたが、不渡率が高い状態であつた。
興農は、昭和三三年五月以降毎月その手形決済資金等の不足を専ら永代からの融資によつて補つてきたが、右融資の額は、次第に増大し、永代の組合長たる被告人山屋は、興農関係の貸付事務を担当する組合長席箕島良輔や専務理事山屋保元らから、この融資が一般貸付基準を超え、いわゆる見返り手形も不渡率が高いことから、今後の貸付を差し控えた方がいい旨の進言がなされるに至つたにもかかわらず、依然として興農への融資を続けたため、昭和三四年八月末において、永代の興農への貸付残高は、興農名義による融資残高二億七、〇〇〇余万円と前記青木工業所経由分残高四、七〇〇万円とを併せて合計三億二、〇〇〇万円を超えるに至つた。
そして、昭和三四年九月上旬に至つても、興農は、なおも運転資金の不足に悩んでいたが、被告人山屋は、前記事情を考慮し、今後の融資は見返り手形の落込み分に抑えたい意向から、興農の運転資金の不足を専ら永代において補うことを拒否した。そこで、前記米倉は、被告人青木の同道を求めて、その頃永代の事務所等を訪ね、被告人山屋と興農の資金繰りの方法について相談した。その結果、被告人青木、同山屋および右米倉の間で、興農における手形決済資金等の不足を補う一つの方法として、被告人山屋が理事長をしている全信連から被告人青木が組合長をしている青和に対し、別枠による<臨>または<特>貸付の方法をとつていわゆる紐つき融資をし、青和がこれを興農に貸し付けることに決した。
右融資に関し、青和においては頭初前記早川専務理事らが難色を示したが、被告人青木は、右早川らに対し、永代の興農に対する融資の枠が一杯になつたため、今後は全信連が青和を通して興農に融資するのであつて、青和の資金を要するというものでなく、青和に損害を与えることにはならない旨を説いて、その承諾を得たのである。そこで、青和においては、被告人青木のもとに右早川が主にこの貸付の事務に当たつたが、被告人青木の右説明に従い、右早川は、同被告人と相談のうえ、後記のとおり昭和三四年九月から昭和三五年四月までの別紙一覧表(一)の1ないし13合計一三口二億〇、〇八〇万円の貸付関係の分について、正規の記票記帳をせず、早川のメモなどに記載して処理していたが、貸付金の増大およびその利息計算が煩雑になつてきたことなどから、同年五月初貸付金残高一億五、九七〇万円についてこれを正規の帳簿に記載するに至つた。この間、青和では、全信連に報告する日計表にも本件の前記いわゆる紐つき融資による興農への融資分(以下本件融資分と略称する。)を記載せず、同年四月から同年五月にかけ大蔵省の全信連に対する検査の結果、全信連の青和に対する限度超過貸付とともに、右日計表未記載の点につき注意されてからは、本件融資分を記載したものと記載しないものとの二通りの日計表を作成し、本件融資分を秘匿するようにしていた。しかも、青和では、本件融資分を正規の帳簿に記帳するようになつてからも、これを青和の資金による通常の貸付分と区別し、別口融資扱いとして別個の記帳をし、また、本件融資分につき一切禀議書を作成せず、その担保についても、興農の所有する担保価値のある物件は、前記のとおりすでに殆んど永代の融資の担保として差し入れられていたため、徴求の余地がなく、昭和三六年三月に至つて本件融資分の担保として興農からその所有にかかる久留米市所在の五一坪余の宅地に対し極度額三億五、〇〇〇万円の根低当権設定を約する書面を入れさせる状態であつた。そのうえ、青和では、本件融資分の見返りとして、昭和三五年一一月以降常時興農から興農が受け取る商業手形などを差し入れさせるようになつたが、その商業手形の不渡率が高い状態であつたのに、その信用調査をした形跡もなく、青和においてこの商業手形に裏書してそのまま全信連からの借入の担保として全信連に差し入れていたのであつて、それまでは、これらの商業手形さえも差し入れない場合が多く、本件融資分の担保となり得る定期性預金もない状態であつた。
他方、全信連においては、田中正治(総務部長事務担当を経て昭和三六年五月以降総務部長兼営業部長)および矢作福次(貸付係長兼預金係長事務担当を経て昭和三六年五月以降営業課長)が前記いわゆる紐つき融資の事務をとり、青和に対する貸付の金額、内容などを下部職員に指示してその禀議書を作成させていたが、この融資は、程なくして全信連の事実上の一般貸付基準をも超えたので、瀬戸常務理事は、その頃から青和に対するこの融資に反対するに至り、右田中や矢作も被告人山屋に右超過貸付について注意を促したが、同被告人は、この段階において融資を打ち切ることはできないとして、意に反しつつも、この融資を継続した。そして、この融資およびこれによる青和の興農への融資は、興農における支払手形決済日(昭和三五年一二月まで毎月一〇日と二五日、それ以降毎月二五日。)の直前、永代等の金融機関から借り入れ得る金額と支払手形の金額とを睨み合わせてその不足分につき興農から青和、青和から全信連に借入の申込がなされたため、貸付金の移動の方法は、当初全信連から青和へ、青和から興農への二段階の方法をとつていたが、後には手形決済時が切迫してくる場合が多くなり、全信連から直接東海銀行池袋支店の興農預金口座に振込送金するなどの一段階の方法により、この貸付の実行がなされていたものであり、一方、全信連は、青和に対する貸付の担保として青和から受け取つた興農の商業手形をその支払日に取立に廻わし、その落込み分は、全信連における青和の別段預金口座に入金し、一定の金額に達すると青和の早川専務理事に連絡のうえ、これを貸付金の返済などに充てていたものである。
なお、永代においては、昭和三四年九月以降右融資の開始により、興農に対する自己の融資の増大を防ぐことができ、その後は興農から徴求した商業手形の落込み分と見合わせて融資を継続し、その貸付残高は、しばらく二億八、〇〇〇万円前後を維持するようになつたが、昭和三五年に入つてからは徐々に増大し、同年一月東京都経済局の検査を受け、右融資の限度超過を注意され、減額、回収方を要望されたことや、同年五月国会で右融資が問題にされたこともあつて、右融資残額を増大させることは困難な状況にあつたにもかかわらず、同年六月頃から右貸付残高は、常時三億円を超えるようになり、昭和三六年八月頃興農から徴求した前記担保物件に対し、担保権を実行し、興農所有の不動産を殆んど永代の所有に移転するに至つたものである。
ところで、興農は、その製造にかかる耕耘機の販売を販売代理店を通して行なつていたが、昭和三一年八月から昭和三二年一二月にかけて前記のとおり資本金を急激に約六倍余に増加したものの、これに伴なつて売上が伸びず、代理店からの売掛代金回収が現金よりも支払期の長い手形によるものが多かつたことなどから、下請企業などに支払う手形決済資金に不足をきたし、前記のとおり、昭和三三年三月上旬手形事故を起こし、このため従来の金融機関からの融資の道がとざされるに至り、手形決済資金の逼迫の度を深めた。そこで、興農では、売掛金の代金回収について、手形から現金に変えるように努力するとともに、前渡金制度を採用し、代理店から将来耕耘機の売渡しを約して予め手形を受け取る一方、下請企業宛の支払手形の期日の延期を求め、前記のとおり、永代から新たに融資を仰ぎ、経営陣に被告人山屋、同青木および前記米倉を迎えて経営の立直しを計つた。しかし、興農では、売掛金の現金回収率がかえつて低下し、受取手形の支払期間が長くなつて金融機関に対する依存度が高くなり、昭和三三年中永代からの借入が増大する一方で、経営状態は改善されないまま、昭和三四年以降本田技研工業株式会社、富士重工業株式会社などの大企業が次々と耕耘機製造業界に進出し、販売競争を激化させたため、興農の販売実績も全般的にその圧迫を受けて売上が伸び悩むようになり、ますます経営内容を悪化させる因となつた。このため、興農は、この競争に活路を見出すため、販売代理店および需要者の要望を入れて、昭和三四年から昭和三五年にかけ新型、改良型を次々と生産してみたが、生産設備を殆んど持たず、生産の大部分を外注下請工場に依存していたため、販売競争の激化に伴ない販売部門の要求を入れて臨機応変に生産態勢を整えようとしても、外注部品の納入が意のままにならず、部品発注に齟齬が生じて生産が低下したり、全体の完成が遅れて需要と生産のずれが生じたりして、販売実績が思うように伸びないばかりか、たび重なる設計変更が原因となつて、設計上の過誤が生じたり、外注部品の欠陥を招いたりして、故障する機種が発生し、返品が多くなつて実質的販売実績の削減をきたす結果となつた。さらに、興農では、外注依存度が高いため、経営の悪化に伴なう支払方法の不安定が原因となつて、外注部品が割高となり、必然的に製品の原価高をきたしていたのに、需要期に遅れて値引を強いられたり、大企業に対抗して値引をしたため、販売に見合う利益を挙げることもできない状態であつた。そして、販売実績の伸び悩み、利益率の低下に加え、設計変更による生産中止機種や返品された機種の在庫が増大し、多機種生産に伴なう諸費用も重なつて、毎月の手形決済資金に窮し、永代および青和からの借入金が増大する一方で、このため金利負担による営業外費用が極度に増大し、ますます経営を圧迫する大きな要因となつてきた。そこで、興農では、毎月不足する手形決済資金を補うべく、毎月初め販売会議を開き、販売目標を立てて販売の強化を計るとともに、金融機関からの借入金の担保となる商業手形の確保に努めたが、結果は、優良販売代理店が大企業に奪われ販売網が弱体化してきたことなどから、販売実績が目標の販売台数に至らないばかりか、毎月の生産台数を下廻わることが多く、また、売掛金の回収に無理を強いてきた結果、販売代理店から将来の販売予約に基づいて受け取る手形が多く、昭和三五年末頃からは将来の販売予約を見こして仮に受け取る手形も多くなり、金融機関へ見返りとして差し入れられたこれらの手形も、販売代理店の中には銀行取引もない店があつたこと、興農から販売代理店への出荷が遅れたり、販売代理店から返品されたりしたことなどから不渡率も高い状態であつた。かくして、興農では、極度に悪化した経営を立て直すべく、生産面では、昭和三六年以降従来の多機種生産から特定の機種の量産に方針を改め、販売網を整備するとともに、経営圧迫の大きな要因となつている金利負担の加重を除却するため、永代および青和に懇請して、順次利率の低減を計つたが、大勢を改善するに至らず、毎期欠損を生じていたものである。
(二) 犯罪事実
被告人青木は、自己が組合長をしている青和がいわゆる業務方法書により、同一組合員に対する貸付の最高限度は、組合の出資金および準備金の合計額の一〇〇分の一〇と定められ、組合への定期預金および定期積金を担保とするものに限り、右限度をこえる取扱いが認められ、日常の業務のうえでは、組合員の右定期性預金の約二倍を限度として貸付事務が運用されているが、いずれにしても、右業務方法書により、組合員に対する貸付に当たつては、金額または期間に応じて保証人を立てさせ、または担保を徴求することが定められているのであるから、同組合長として、組合資金の運用特に貸付事務の処理に際し、右定めを誠実に遵守し、貸付金の回収不能に陥らないように運用処理すべき任務を有するところ、自ら役員をしている興農が被告人山屋が組合長をしている永代から既に前記のように青木工業経由分も含めて三億円を超える融資を受けながら、なお経営困難な状態にあつて、このうえ更に多額の融資を必要としていたが、前記の事情から興農の手形決済資金などの不足を専ら永代において補うことが困難になつたため、被告人山屋と相談した結果、前記のとおり、被告人山屋が理事長をしている全信連から青和に対し、いわゆる紐つき融資をし、これを青和から被告人山屋も役員をしている興農に融資して、その窮状を救おうと決意し、ここに被告人青木および同山屋は、共謀のうえ、青和から被告興農へのこの融資が、青和の貸付基準を守らず、相当な担保も徴しないで行なわれる場合には、長期間回収し得ないのはもとより、回収不能の危険さえもあつて、青和に財産上の損害を生ぜしめるおそれが極めて強いことを充分認識しながら、興農の利益を図る目的をもつて、右青木の組合長としての任務に背き、前記青和のいずれの貸付基準をも無視し、相当な物的担保や定期性預金などの担保を徴求することなく、単に不渡率の高い興農の受取手形などを見返りとして受領したことがある程度で、別紙一覧表(一)記載のように、継続して昭和三四年九月九日頃から昭和三六年一一月二五日頃までにわたり、前記全信連の事務所等において、興農の銀行預金口座へ振込送金するなどの方法により、全信連から借り受けた資金をもつて青和から興農に合計金七億〇、四一〇万円を貸し付け、青和にこの貸付金の回収不能の危険を生じさせ、もつて青和に対し財産上の損害を加えたものである。
第二 被告人青木、同松浦および同飯島の商法違反の事実
興農の昭和三四年一月一日から同年九月三〇日までの第一三期においては、被告人松浦は、代表取締役社長、被告人青木は、二月二七日まで監査役で、その後は取締役、被告人飯島は、二月二七日まで取締役で、その後は監査役であつたが、同期の興農は、欠損が多額で到底配当することはできない状況であつて、取締役間において配当について意見が一致しなかつたところ、同年一〇月中、経理担当の取締役たる前記米倉は、経理課員らに命じて、真実の決算案のほか無配当、一割配当および一割二分配当の各粉飾決算案を作成させ、これを興農の代表取締役たる被告人松浦および監査役たる被告人飯島に示したところ、同被告人らは、同会社の株式が昭和三二年一月以降名古屋証券業協会から店頭売買株式として承認されてもいることから、無配当にした場合の営業上の支障を憂慮し、かつ、右株式公開に努力した当時の水谷証券株式会社社長で、興農の大株主である加藤辰次の強い要望もあつて、配当を継続して興農の信用を維持しようと考え、右粉飾決算案のうち一割二分配当のものを採択し、同期においては真実の欠損金が一億〇、〇〇五万六、九九五円であるのにかかわらず、棚卸資産を水増しする等の方法によつて三、一一六万五、八四三円の仮装の当期純利益を計上し、前期までの仮装の繰越利益金二三五万五、一七〇円との合計金三、三五二万一、〇一三円の利益剰余金があるように装つて、この内合計金二、二二七万一、〇一三円を利益準備金等として留保し、金一、一二五万を株式配当金とした利益剰余金処分をすることとし、取締役たる被告人青木も、かかる事実を知りながら、同様興農の信用維持のため配当継続の必要があるものと考えてこれに賛成し、ここに被告人松浦、同青木および同飯島は、共謀のうえ、同年一一月三〇日前記興農の事務所において開かれた株主総会に右の案の利益剰余金処分案を他の財務諸表とともに提出して承認させたうえ、同年一二月二四日頃から昭和三五年一月三〇日頃までの間株主一、二〇〇余名に対し合計金九五六万八、一三九円を配当し、もつて、法令の規定に違反して利益の配当をしたものである。
第三 被告人山屋の出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律違反の事実
被告人山屋は、その代表取締役をしている鎌倉ハム食品工業株式会社が昭和三五年春頃永代から貸付限度超過を理由に手形割引を拒絶されるに至るや、自己個人所有の金銭をもつて同会社のため手形割引を継続しようと企て、自己および右会社の利益を図るため、別紙一覧表(二)記載のとおり昭和三五年一〇月一九日頃から昭和三六年一一月二八日頃までの間、前記永代の組合事務所において、自己がその組合長であるところから、同組合の貸付課長補佐金子三代子ら職員をして、信用調査、割引料の計算、手形金の取立等の諸事務をさせ、右会社に対し、合計三二四枚の約束手形(額面合計金額五、八三五万二、七五五円)の割引をし、もつて、永代の組合長たる地位を利用して手形の割引をしたものである。
(証拠の標目)(省略)
(弁護人の主張に対する判断)
一 公訴棄却の申立について
被告人山屋の弁護人らは、同被告人に対する出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律違反の公訴は、次のような理由により棄却さるべき旨主張する。すなわち、この分に関する起訴状の公訴事実の記載には、割引したという約束手形の表示として、単に割引年月日、手形の枚数、手形金額の合計があるのみで、個々の手形の法定要件が具体的に記載されていない。少くとも約束手形を特定しうる程度の記載がなければならないものであつて、振出人、振出年月日等の記載がなくては、割引された手形を特定し、これを他の手形と区別することはできない。従つて、右起訴状の記載は、訴因を特定しておらず、その公訴提起は、刑事訴訟法第二五六条の規定に違反し、無効であるから、刑事訴訟法第三三八条第四号によつて、右公訴は、棄却さるべきものであるというのである。
しかしながら、右起訴状の記載は、弁護人のいうように個個の手形についての振出人、振出年月日等の記載がないけれども、優に罪となるべき事実は特定し、訴因の明示に欠けるところがないから、右弁護人の主張は、理由がなく、この申立は、もとより容認することはできない。
二 違法性の阻却の主張について
被告人松浦の弁護人らは、被告人松浦の本件配当行為が仮に商法第四八九条第三号、第二九〇条第一項にいう違法配当罪に該当するとしても、同被告人の本件行為は、後記のような事情からした行為であつて、これを実質的に判断すれば、刑法第三五条の趣旨に照らし、いわゆる社会的相当行為であり、仮に法条の解釈に形式的な態度をとつてみても、刑法第三五条にいう正当な業務による行為であるから、いずれにしても、本件行為の違法性は阻却されるものであると主張する。その要旨とするところは、次のとおりである。すなわち、被告人松浦は、興農の第一三期以降永年育て上げてきた同会社における代表取締役社長としての実権を失うに至つたが、同会社の経営だけは何とか軌道に乗せたいとの執念を抱いていたところ、第一三期定時株主総会を目前に控えた昭和三四年一〇月から一一月頃にかけ、会社では未だ利益配当実施の方針が決まらなかつたため、興農の株式公開およびその推奨に多大の尽力をし、かつ、興農の大株主でもあつた加藤辰次が、興農の右のような態度を強く批難し、相被告人青木の同年三月名古屋市において行なわれた興農の株式説明会の席上における第一三期には一割六分ないし一割八分の配当をする旨の発言をとらえ、この約束に背いて無配当にした場合には重大な結果を生ずるとして強硬にその実施を迫るに至つた。右加藤は、興農の株式の生みの親であり、興農の死命を制し得る立場にあつたので、仮に同人の意向に反して配当を実施しなかつた場合には、同人の反感を買つて同人の背後の多くの株主をも敵に廻わし、最大の後援者を失うことになるので、興農としてもその意向に反することは至難な状況にあつた。しかも、興農は、株式を公開し、これまで配当を続けてきたので、第一三期において直ちに無配に転落した場合、会社の信用は直ちに失墜し、営業上多大の支障を来たして倒産の危険すらあり、会社が倒産に至れば、会社債権者、株主、第三者等の利益および権利を侵害する重大な結果を生ずるに至るのである。他方、興農では、同年一一月台湾において興農の製品の販売契約を取りつけることに成功し、被告人松浦は、第一四期以降の同会社の営業成績は上昇するものと確信していたのである。そこで、被告人松浦は、右のような事情を考慮し、企業を長期的にみて一時的には若干の赤字があつても、将来黒字にしうる確実な見透しのもとに、第一三期においても配当を継続することが会社の信用を維持し、会社を倒産から救い、ひいては会社債権者、株主の利益にもなると考え、真に会社のためをはかる意思から、第一三期の配当決定に賛成したものである。第一三期の配当は、資本維持の原則に反し、会社債権者等の権利を抽象的に侵害する惧れはあつても、これにより、会社の信用を維持して会社を倒産から救い、倒産によつて生ずる会社債権者等の現実の権利の侵害を避けることができるのであつて、そのうえ、前記のように、加藤辰次の強い配当要求に反し得ない状況から、会社の信用維持のため、やむを得ずこの配当が行なわれるに至つたものである。従つて、同被告人の本件配当行為は、その目的、動機において正当であり、そのとつた方法において相当であり、また、本件行為により保護しようとした法益と行為の結果侵害される法益と対比して均衡を失わず、本件配当行為は、当時の状況に照らし必要性があり、やむを得ざる緊急性があつたから、結局社会的相当性が認められ、実質的に違法性が阻却されるものである。仮に法条の解釈に形式的な態度をとつてみても、被告人松浦は、興農の代表取締役社長として、企業そのものおよび株主の利益を考慮して本件配当に及んだものであつて、会社重役としての正当な業務によりなした行為であるから、刑法第三五条により違法性は阻却されるというのである。また、被告人飯島の弁護人は、同被告人の本件配当行為については、次のように違法性が阻却される旨主張する。すなわち、本件配当決定当時の興農は、将来飛躍的に発展する大きな期待がもたれていたが、他方、大資本を擁する他社との競争場裡に立たされ、資金繰りが相当困難となつており、その社運は、資金繰りがうまくいくか否かにかかつていた。このようなときには、まず信用の維持が必要で、そのためそれまで実施してきた配当はどうしても維持しなければならず、しかも、興農の株式は公開されており、株式の公開について尽力した加藤辰次からは第一三期について強い配当の要請があり、同人の期待を裏切ることはできなかつた。そして、興農の第一三期における真実の欠損額は、せいぜい四、〇〇〇万円ないし五、〇〇〇万円程度であり、それも将来充分補填しうるものであり、本件配当によつて社外に流出した金額も九五六万八、一三九円で、会社の規模からすれば、その財政を危険にみちびくものではない。以上のような諸事情からみて、被告人飯島の本件配当の所為は、違法性を欠くというのである。
そこで、右被告人松浦および同飯島の各弁護人の主張について判断するに、被告人松浦および同飯島が本件配当行為に及んだのは、興農の株式が公開されているもとで無配当にした場合の営業上の支障を惧れ、前記加藤辰次の強い配当要望もあつて、会社の信用維持をはかるためであつたことは、判示認定のとおりであるが、前掲各証拠を総合すると、興農では、第一二期以降経営状態が思わしくなく、運転資金の資金繰りに困窮する状態が続いていたものであり、このため永代からの借入金が増大した状況のもとで、第一三期決算において、判示認定のような欠損金が生じたにもかかわらず、利益があるものとして判示のような配当をしたものであつて、その当時の経営内容および規模に照らしても、これを少額の欠損金や配当金として軽視すべきものではなく、本件配当の決定ないし実施当時、興農の次期以降において会社の経営状態が急速に回復して累積欠損額を補填しうる客観的な特段の事情があつたものとは、到底認められないのである。確かに、前記加藤辰次が興農の株式公開などに尽力した経過、その株式保有高および相被告人青木が昭和三四年三月名古屋市における興農の株式説明会の席上第一三期に高配当に導びくよう努力する旨公言したことなどから、右加藤が興農の第一三期の配当決定に関しかなりの発言力を持つていたことは否定することができないとしても、本件配当の決定ないし実施当時の諸般の事情および本件利益配当率などに照らして考えると、被告人松浦および同飯島の本件配当行為を目して、興農の本来あるべき姿の信用を維持するため、必要な、やむを得ない行為であり、他に、本件配当行為に代つて会社の信用を維持する方法を見出すことが不可能若しくは著しく困難であつたものとすることは、到底できないのであつて、この点からしても、弁護人らの主張は、失当であり、その余の点について判断するまでもなく、被告人松浦および同飯島の本件配当行為を社会的に相当な行為として実質的に違法性を阻却するものと認めることはできないのである。また、以上の説明から明らかなように、被告人松浦および同飯島の本件配当行為が同被告人らの正当な業務に基づく行為とは到底認められないから、刑法第三五条により違法性を阻却されるものでないことは、もとより明らかである。結局、右弁護人の主張は、いずれも、これを肯認して採用することはできないのである。
三 期待可能性に関する主張について
被告人松浦の弁護人らは、同被告人の本件配当行為については、期待可能性の点からみて、後記のように責任性が阻却される旨主張する。すなわち本件配当の決定ないし実施当時、興農では、興農に融資をしていた金融機関の資本的背景をもとに入社していた相被告人青木および米倉順道らが、すでに営業、経理、人事等の経営の実権をその手中に収め、被告人松浦は、名目上代表取締役社長の地位に止まつていたに過ぎないのである。従つて、本件配当の決定は、前記加藤辰次の強い配当要求に基づき、相被告人青木らの実権者がこれを決めたものであつて、被告人松浦は、これに反対する術もなく、従わざるを得なかつたのである。このような状況のもとで、被告人松浦に他の行為を期待することはできないと言うべきであるから、同被告人が本件配当に関与したとしても、その責任は阻却さるべきであるというのである。
そこで、右主張について判断するに、第一三期における本件利益配当が決まるに至つた経緯は、判示認定のとおりであつて、前掲各証拠によると、右配当の決定ないし実施当時、興農では、永代などからの借入金が多額にのぼり、興農の経営に関し前記米倉順道らの発言権が増大していたことは否定することができないとしても、右配当の決定ないし実施に際し、被告人松浦は、相被告人青木らの意向に全く反対することができず、これに従わざるを得ない事情のもとに、、本件配当に関与したものとは、到底認めることはできないから、右弁護人の主張は、採用することができない。
(法令の適用)
被告人青木の判示第一の所為は、包括して刑法第二四七条、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第一号、刑法第六〇条に、判示第二の所為は、商法第四八九条第三号、第四八六条第一項、第二九〇条第一項、罰金等臨時措置法第二条第一項、刑法第六〇条に各該当し、被告人山屋の判示第一の所為は、包括して刑法第二四七条、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第一号、刑法第六〇条、第六五条第一項に、判示第三の所為は、包括して出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律第一一条第一項第一号、第三条、第九条に各該当し、被告人松浦および同飯島の判示第二の所為は、いずれも商法第四八九条第三号、第四八六条第一項、第二九〇条第一項、罰金等臨時措置法第二条第一項、刑法第六〇条に該当する。そして、被告人青木の右背任罪と商法違反罪、被告人山屋の右背任罪と出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律違反罪は、それぞれ刑法第四五条前段の併合罪であるから、各所定刑中懲役刑を選択のうえ、同法第四七条本文、第一〇条(被告人青木については第三項、被告人山屋については第二項)により、それぞれ重い背任罪の刑に併合罪の加重をした刑期の範囲内で量刑し、被告人松浦および同飯島については、各所定刑中懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で量刑することとし、被告人青木および同山屋を各懲役二年六月に、被告人松浦を懲役一〇月に、被告人飯島を懲役八月に、各処する。但し、諸般の情状に鑑み、各被告人とも、刑の執行を猶予するのが相当と認められるから、刑法第二五条第一項により、それぞれ、この裁判の確定の日から、被告人青木および同山屋に対しては各三年間、被告人松浦および同飯島に対しては各二年間、右刑の執行を猶予する。なお、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文(単独負担の分)、同規定および同法第一八二条(連帯負担の分)をそれぞれ適用して、主文第三項記載のとおり被告人らにこれを負担させる。
よつて、主文のとおり判決する。
(別紙)一覧表(一)
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(別紙)一覧表(二)
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